Microsoft Edge
を、お使いの方は、HTML文書の読み上げ機能が使えます、右はその使い方です。
島原.普賢岳 火砕流被害
(風化する自然災害の記憶)
普賢岳の火山活動は、有史以来3回の、噴火記録が、あるそうです。
普賢岳噴火の歴史、
1663年〜1664年、寛文3年〜4年の噴火、
このときの噴火で、幅は約100m、長さは約1km、にわたり、溶岩が流れ、30名余りの犠牲者が出たそうです。
1792年(寛政4年)の噴火、島原大変、
このときの噴火は、普賢岳山頂付近の、地獄跡 火口から、噴火がはじまったそうです。
この時は、島原の”まゆ山”が、崩落し、大量の土砂が、島原から有明海へ、向かって流れました、これが世に言う「島原大変」です。
大量の土砂で、津波が発生し、対岸の肥後、天草まで達し、これを、肥後迷惑、と言われています。/li>
天草まで達した津波が、島原に戻り、この津波によって、島原と天草で、約15,000名の、死者が出たとの事です、この災害を、「島原大変、肥後迷惑」、と呼んでいます。
1990年〜1995年(平成2〜7年)の噴火、
1990年11月17日(平成2年)、九十九島、地獄跡、の火口から、噴煙、水蒸気、噴火が、
198年ぶりに始まりました。
3つの火口から、の大量の降灰が、深江、島原方面に、降り積もり、同時に、土石流も発生し、水無川に沿い、海岸にまで達しました。
6月3日には、成長した溶岩ドームが、崩壊して、大規模な火砕流が発生した、
危険な区域に、入り込んでいた報道関係者、それらを警戒し、排除しようとしていた、消防団員、警察官ら、43名の犠牲者を出す大惨事となりました。
その後、1995年(平成7年)には、噴火活動も停止し、5月には「終息宣言」が出されました。
約200年ぶりの、普賢岳噴火は、死者44名、建物損壊、2,511棟、被害総額、2,299億円に及びました。
無謀な、行為の結果、被害にあった、パパラッチ同然の者の被害は、自業自得だが、それらに巻き込まれた、消防団員の方々には言葉もない、冥福を祈るばかりです。
土石流被災家屋保存公園
普賢岳、火砕流災害場所と、被災地保存の状況、
小浜温泉に行った際に、立ち寄りました。
普賢岳.眉山
眉山左側
の火砕流痕
雲がかかっているあたりに平成新山が有ります
埋まった家
埋まった家と私です
埋まった家と私のヨメさん
火砕流に
埋まった家
ドーム内展示
埋まった家
埋まった家
ドーム内展示
被災家屋
ドーム内展示
ドーム内展示
埋まった家
埋まった家
ドーム内展示
火砕流の噴煙が島原城の上空まで来ていたようです。
島原城は行った事が有りませんでした。
折角来たのだから見に行きました。
島原城まで噴煙
雲仙・普賢岳噴火災害の)報道について
無思慮な報道関係者が、危険区域に入り込み、それらを排除しようとしていた、多くの消防団員、警察官が巻き込まれ、亡くなったようです。
被害の背景には、当初の小規模の火砕流が、衝撃的だった事から、取材競争が過熱し、十分な知識を持たない報道関係者が、「定点」と呼ばれた山と、火砕流を正面から、望める地点に立ち入った事だそうです。
報道関係者は、避難して無人となっている人家に、侵入するなど、トラブルを起こしていたため、それらを阻止するために消防団員、警察官が引きずり込まれる形で、危険な地域に居なければならなかった為、犠牲となったのです。
消防団員、警察官などの、犠牲者の発生以降は、報道関係者らが、警戒区域内に入ることは、無かったそうだが、その後も、自衛隊の情報独占に、不満がある、と主張する輩が、許可なく警戒区域内に侵入し、「書類送検」、される、等と言う愚かな事例もあり、報道のあり方が問われる事件となった。
(以上は、ウィキペディア抜粋)
報道だから、取材だから、と言って、何も特権があるわけでは無い。
風化する自然災害の記憶
2021年12月、 雲仙、普賢岳の噴火災害遺構の長崎県南島原市の「土石流被災家屋保存公園」で、展示中の被災家屋が撤去されました。
災害遺構として屋外展示してきましたが、劣化が進み、修復は困難と判断したそうです。
死者・行方不明者43人、多くの被害を出した災害も、施設は来場者の減少が続き、併設する道の駅は閉館となり、自然災害の記憶の風化を防ぐ事は難しいようです。
公園内で展示している11棟の被災家屋のうち、3棟は半永久的な保存を目指してテント状のドーム内で展示しています。
Copyright (C) 2023、 All Rights Reserved、
コンテンツの転載引用は悪意が無い物に限りご自由です
TOP
ページへ
マウスオン
背景表示
ページの
上に行く
掲示板
背景は、
流れ下った、火砕流の後です。